Hugo Burel
2026.10.06 · 8 min read
人はいつの時代も、人生をより面白く、より美しくする方法を見つけてきた。コミュニティをつくり、アイデアを交わし、儀式を育み、ものをつくり、知識を受け継ぎ、誰にも頼まれず、誰も必要だと気づいていなかったものを生み出し、そして何が大切なのかを、ときに無意識のうちに、皆で決めていく。
K&Cが尽きることのない好奇心を抱いているのは、この世界である。私たちにとって、これこそが文化だ。
文化は美術館の中にあるのと同じように街角にもあり、インディー映画やK-POPのミュージックビデオの中にあるのと同じように、友人同士の習慣の中にもある。それは、私たちが共に愛し、価値を置き、意味を見出すものの表現として、人間の社会から立ち現れる。相互のやりとりを通じてかたちを成し、本質的に参加型である。人々はアイデアを交わし、互いに影響を与え合い、意見を違え、応答し、借用し、先人の積み重ねの上に築いていく。その行き先を一人の人間が決めることはなく、その帰結が計画や予測どおりになることもまずない。個人とコミュニティの双方によってかたちづくられながら、時とともに進化し、変わっていく。
私たちが文化にこれほど魅了されるのは、まさにこの点にある。共に生き、関わり合う人々による、絶え間ない表現であるということだ。
これは、私たちが「What is a brand?」で論じた見方から自然に導かれる。ブランドはそれを取り巻く社会との関係の中に存在し、最終的には、それが触れた人々やコミュニティによって担われる、という見方だ。ブランドが社会の中に存在するのであれば、私たちが関心を寄せるのは、ブランドが社会とどのような関係を結ぶことを選ぶのか、ということになる。
歴史的に見れば、その関係は主にコミュニケーションによって定義されてきた。それには十分な理由がある。ブランドには表現すべき視点があり、コミュニケーションは他者がそれを理解するための手段だからだ。時を経て、ブランドは文化がその表現をいかに豊かにしうるかを理解することに、きわめて洗練されてきた。文化のアーティストと協働し、その言葉を借り、そのイベントに参加し、そこに生きる人々やコミュニティの物語を語る。そこから生まれる仕事の多くは、知的で、美しく、文化的にも意義のあるものになりうる。しかし根本的には、それはやはりブランド自身についての表明にとどまる。
これこそが、Brand Marketingの核にある考え方である。コミュニケーションを用いて、ブランドの視点に、世界の中でのかたちと表現を与えること。コミュニケーションは、ほぼ完全にブランドの手で形づくり、書き上げることができる。それによってブランドは、自らが信じるものを表現し、人々を自らの世界へと招き入れることができる。モノローグのように、それは知的で、心を動かし、美しくつくられたものでありうる。ある人が何者で、何を信じているのかを、正確に伝えることができる。そして、その居場所がなくなることはないだろう。
しかし、文化そのものが本質的に参加型であるならば、ブランドが文化と関わるには、もう一つのあり方があると私たちは考える。
だからこそ私たちは、ブランドが、見返りとして自らが何を貢献できるかを理解することにおいても同じように洗練されたとき、何が起こるのかに関心を持っている。人間の関係は、自分が何者であるかを伝えることだけで築かれるものではないからだ。私たちは自分について語り、信念を表明し、大切にしているものを分かち合い、他者を自分の世界に招き入れる。それは、私たちが互いにとって理解可能な存在になるための営みの一部である。しかし同じくらい大切なのは、他者が何を大切にし、何をしようとしていて、自分の知らない何を知っているかに関心を持つことだ。私たちはものを交換し、助け合い、人を紹介し、資源を分かち合い、ときには何かを共につくる。ときには、それが存在するに値すると思うという、ただそれだけの理由で何かを支えることもある。
私たちは、参加する。
ブランドにとって参加とは、文化との関係を、主に文化を通じてコミュニケーションすることから、文化に対して何かを積極的に貢献することへと移すことである。ブランドが貢献できるものは大きい。資金、空間、テクノロジー、専門性、ネットワーク、そしてリーチという並外れたリソースを持っている。それらのリソースが、ブランド自身を増幅するためだけでなく、誰か他の人が何か面白いことをするのを助けるために使われる光景を想像することには、私たちにとって心躍るものがある。
本来なら資金を得られなかった映画を、ある映画監督が撮れるかもしれない。地域にとって大切なバスケットボールコートが守られるかもしれない。ある研究者が、新しい暮らし方を探究する自由を与えられるかもしれない。あるアーティストがテクノロジーに触れ、その作り手が想像もしなかったことをそれで成し遂げるかもしれない。ある技芸や場所、アイデアやコミュニティが、新しい受け手と出会うかもしれない。
本来なら存在しなかったはずの何かが、存在するかもしれない。
この原理そのものは、決して新しいものではない。何世紀にもわたり、パトロンや機関、企業は、アーティストや思想家、職人、そしてコミュニティに自らのリソースを注いできた。文化的な関連性がマーケティングの目標として語られるはるか以前から、組織は、世に送り出す価値があると信じる人やアイデアを支えてきたのである。
しかし参加は、ブランドにこれまでとは異なるものを求めもする。コミュニケーションがほぼ完全にブランドの手で形づくり、書き上げられるのに対し、参加は同じようにはコントロールできない。参加するということは、ブランドが自ら可能にするもののすべてを書き上げる必要はなく、そのすべての帰結を決める必要もないと受け入れることを意味する。誰かを本当の意味での協働に招けば、その人は異を唱えるかもしれないし、アイデアを思いがけない方向へ持っていくかもしれないし、それを可能にした組織とはほとんど似ても似つかないものをつくるかもしれない。これにはある程度のコントロールを手放すことが求められるが、まさにそれこそが、相手の側に主体性を与えるのである。価値の一部がブランドから独立して存在することを許すことが、その交換を意味あるものにする一因となる。そして貢献そのものが、貢献する者について何かを物語る。
これは、自らの視点を手放すことを意味しない。むしろその逆である。対話が面白くなるのは、まさに双方がそれぞれ固有のものを持ち寄るからだ。その意味で、参加は会話に少し似ている。私たちは、それがどこへ向かうのかを正確には知らないまま会話を始めるが、その可能性に好奇心を抱いている。その不確かさこそが、そもそも会話をする理由の一部なのだ。どこで終わるのかが最初からわかっているなら、始める意味はほとんどないだろう。ブランドにとっての課題は、世界とのあらゆる出会いが自らの信念の繰り返しで終わらなければならないと思い込むことなく、その信念を保ち続けることにある。以前にも書いたように、最も強いブランドは、意味を持つのに十分なほど固く、そして世界によって試されるのに十分なほど緩やかに、その信念を保っている。
私たちは、そうした貢献と商業的価値のあいだに矛盾があるとは考えていない。ブランドはビジネスであり、そうでないふりをすることに私たちは関心がない。ブランドは、創造性を信じていると言うことができる。同時に、創造的な仕事が存在することを可能にすることもできる。クラフトマンシップを大切にしていると言うことができる。同時に、ある技芸が生き延び、進化し、新たな担い手を見つける手助けをすることもできる。コミュニティを信じていると言うことができる。同時に、自らが持つものを使って、コミュニティがすでに築き上げたものを強める手助けをすることもできる。
その意味で、参加はブランド構築と切り離されたものではない。ブランドが何を可能にすることを選ぶかが、そのブランドが何を信じているかの証となる。
時を経て、そうした選択は、人々がブランドをどう理解するかをかたちづくり、愛着と独自性を育み、ある企業を他の企業よりも選ぶ理由を生み出しうる。商業的価値は、貢献にもかかわらず存在するのではない。貢献があるからこそ、生まれうるのである。
重要なのは、参加がコミュニケーションに取って代わるものではないということだ。参加は、ブランドが文化と結びうる関係を広げる。コミュニケーションは、ブランドが自らの信じるものを表現し、人々を自らの世界へと招き入れることを可能にする。参加は、ブランドが他者の世界に関心を持ち、そこに何かを貢献することを可能にする。
私たちはこの考え方をCulture Marketingと呼ぶようになったが、その名前はどうしても不完全なものにならざるをえない。私たちが関心を寄せているのは、産業としての文化でも、デモグラフィックとしての文化でも、コンテンツのカテゴリーとしての文化でもなく、ブランドがすでにその中に存在している、人間の参加というはるかに広い織物そのものである。
したがってCulture Marketingは、新しいマーケティング手法というよりも、その関係についての異なる考え方である。ブランドは、自らが何を語り、何をつくるかを通じて、信じるものを表現することができる。そしてまた、何に参加し、何を支え、何を可能にすることを選ぶかを通じて、その信念を表現することもできる。
コミュニケーションがモノローグであるならば、参加は対話の可能性を開く。対話はこれまでとは異なるものを求める。語るのに十分な自信、耳を傾けるのに十分な好奇心、そして、最も面白い帰結は、どちらか一方だけでは決して生み出せなかったものかもしれないと受け入れるのに十分な開かれた心である。
その可能性こそが、私たちを心躍らせる。
ブランドは、自らが持つものを、ただ自分自身を世界にとってより面白い存在にするためだけでなく、自らを取り巻く世界をより面白く、より美しいものにする手助けのために使うことができると、私たちは信じているからだ。